あたしは自分の生まれ故郷を知らない
父親の顔は見た事もないし
母親の顔も とうに忘れた
4つの時に この海沿いの町に来て
小料理屋を営む祖母に
さんざん嫌味を言われまくって育ち
今はバイトに明け暮れながら
夢のかけら磨いている
待てよ レン!
あの事
ノブには おれが話しとくから
ナナにはおまえからちゃんと話せよ
あたしとレンが初めて会ったのも
こんな吹雪の夜だったんだよ
おまえは あの日赤いワンピース着てた
あの夜生まれた感情を
どんな名前で呼べばいいのか
それは恋だとか
ときめきだとか
甘い響きは似つかわしくない
嫉妬が入り混じった羨望と
焦燥感
そして欲情
今でも時々不安になる
レンと暮らすこの日常が
全て夢の中の出来事に思えたりする
それまで卑屈に生きて来たあたしに
レンは眩し過ぎたから
どんなにあがいても
未だに手が届かない気がするよ
ナナ…
おれ 東京行くから
おまえはおまえの好きに生きりゃいいさ
レンは…
ナナを捨ててくつもりか…?
なんだよそれ…
捨ててくとか
連れてくとか
ナナはレンの飼い猫じゃねぇぞ
立派に自立した一人前の女だろ
一緒に行きたきゃ行くだろうよ
それはナナが決める事だ
レンもきっとそう思ってるよ
レンと二度目に会ったのは
潮風が肌に絡みつく
真夏の午後だった
あの日からあたしは
レンが放つ引力で
高なる潮騒のようだった
胸が波立つ
高く
高く高く
溢れた想いが声になる
ナナ!
おれのバンドで歌って!
だけど あたしはレンの為に
歌う事を決めたわけじゃない
あたしは あたしの為に
今日まで歌って来たんだよ
今さら他のボーカルでギター弾く気になれねぇんだよ…
ありがとう ノブ…
でも あたしは行かない…
レンはあたしに歌う喜びをくれた
ギターを教えてくれた
生きる希望を与えてくれた
だけど あたしはレンの為に何をしてあげられただろう
このままべつに歌なんか歌えなくなっても
レンと一緒に東京へ行って
レンの為に せめて毎日ごはんを作って部屋を磨いて
レンの子供を産んで
そうするべきなのかもしれない
それだって充分すぎる程の幸せじゃないか
家族のいない あたし達にとって
安らげる家を作る事は
夢を叶える事より
必要なはずなんだ
おれにはギターと煙草さえあればいい
そろそろ時間だね
レンと暮らして一年と三か月
まだ雪が残る春の始まりに
あたし達は終わった
さよならは言わなかった
だけど 離れて暮らす事が
二人にとって致命的なのは分かっていた
電話や手紙なんて価値がない
抱き合えなければ意味がない
レンが言葉に出来ない寂しさを
夜毎 あたしの中で吐き出しているのを
感じていたから
誰よりも深く感じていたのに
今でも時々後悔する
レンのいないこの日常が
全て夢の中の出来事に思えたりする
特に こんな雪の降りしきる夜は
こんな寒い夜は
誰か あの
レンと別れて一年と九か月
もうすぐ二度目の春が来る
三月の二十歳の誕生日には
がんばった自分にプレゼントを買いに行こう
東京までの片道切符
手荷物は ギターと煙草さえあればいい
最後のキスとそれぞれの涙で2人の本当の気持ちがどこにあったのかよく見える。
レンはナナを連れて行きたかったし、ナナもレンとは離れたくなかった。
でも、レンは夢を選んで、ナナはプライドを選んだ。
他のどんなものよりも失ってはいけない存在だとお互いに気づいていたはずなのに。